コンビニ人間、村田沙耶香。星3。

コンビニ人間は評価されすぎてる。

だから逆に私はけなしたい。

小川洋子は選評で「白羽が主人公の部屋で一緒に暮らすうち、思いがけず凡庸な正体を露呈してしまう」と高く評価しているが、私はそうは思わない。

ラノベなんかだと白羽みたいな人間は「中二病」と一括りにされているし、中二病キャラなんて腐るほどいる。ありふれている。私は白羽が気取りながら登場した瞬間、ああこいつはすぐに化けの皮が剥がれるな、と思ったし、ラノベやらアニメやらに親しんでいる人は誰でも同じように思うだろう。白羽の凡庸さは思いがけないものでなく、ああやっぱりね、というものだった。村田が白羽をこじれた自意識の象徴として描いているのなら(たぶんそうだろう)、ラノベのほうが同じテーマをよっぽど上手く書けていると思うのだが、皆さんどうだろうか?

コンビニで働いていている主人公の、同僚の若い女子は流行やらファッションやらに敏感で、主人公はというとそういう若い子の価値観に魅力を感じてはいないが、周りから浮かないために若い子の真似をして同じブランドの服を着たりする。

私はここに、村田の性根の悪さが見えるようで非常に不快だ。「流行を追うなんて馬鹿だよね。けど流行に逆らうのはそれより馬鹿ね。私は賢いから馬鹿のふりして流行に乗ってあげるわ。」的なスノビズム

私の感覚では、この種のスノビズムを持ち合わせている人は世間に少なからずいるが、そうは言っても慎ましやかなので「私ってスノッブなの」と自慢したりはしない。

しかし村田は作家という立場を利用し、自らのスノビズムを世間に向けて大々的に主張する。彼女にとって羞恥心とは何なのだろうか?

本小説の冒頭にある回想シーンで、主人公の少女時代のエピソードが挿入される。彼女の家の近所で野生の鳥(スズメとかそんなの)が死んでいて、友人たちは可哀そうだと言って埋めようとする。しかし彼女は「わたしのお父さんは焼き鳥が好きだから食べさせてあげる」と溌溂と言い、「ふつう」の友人たちからドン引きされるというものだ。読者も大方「ふつう」の価値観を持っていて主人公を異常だと感じるのだと、村田は想定しているんだろう。

 

村田の物語の本質は、「『ふつう』が絶対に正しいわけじゃない」というテーゼだと、私は思う。そしてこう反論したい。

 

「ふつうが絶対ではなく、ふつうが正しいかどうか誰にも決定できないことなんて、少し利口な人なら十中八九知っているじゃん。だからわざわざドヤ顔で指摘することじゃないじゃん。」ってね。

 

もし村田がこういうことを書いていたら評価できる。

「ふつう」の中に暴力性だとか、マジョリティーにより忘れ去られるマイノリティの感覚だとか、「ふつう」じゃない人が「ふつう」の人の中で生き抜く方法だとかを。

 

村田の本作は「『ふつう』が絶対に正しいわけじゃない」と指摘することに留まっていて、その先が全く描けていないし、村田は先を想定してもいないのだろう。

ここまで書いたところでカミュの「異邦人」って「コンビ人」と似ているなぁとふと思ったのだが、カミュのほうが圧倒的に作家として優れている。

「異邦人」という作品の趣旨は、広く認められている倫理観や、人の上に作られた法律は、一見すると合理的だが根本的には不合理であるというもの。つまるところムルソー人間性は世間の架空の合理性からはみ出ているから、「太陽がまぶしい」というわけのわからぬ理由で人殺しをして死刑になったのだ。「異邦人」の名作たるゆえんはカミュの問題意識の切実さにあると思うのだが、その切実さは世間とムルソーの価値観のずれ、あるいはそれら二つの価値観が全くかみ合わないということに起因しているのだ。

カミュは「世間の合理性が間違っているかも」とか「正しいとされている価値観は間違っているんだ」とか、そういうアダルトチルドレンみたいにワガママなことは微塵も考えていない。

もう一度言うが、コンビ人は大した作品ではない。社会に反抗したいと願う村田の姿が、痛々しく思えてならない。コンビ人に押しのけられて芥川賞入選を逃した「あひる」(今村夏子)は、今村の謙虚さを感じられるし、ひがみがないのに子供たちがもつ未知の恐ろしさを表せているから、コンビ人よりよっぽど秀でてた作品だと思う。

散々けなしたのに、5点満点の星を、コンビ人に3つもあげるのは、芥川賞作品の中では売れてる=商品として優れている、からである。売り上げがいいは正義。ぐぬぬ